記事が悪い訳ではない。考えさせられ、残念で、開けたくない窓になったという意味である。
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「窓」―四日市公害の記憶
「公害の名のつく施設は地元にはいらない」。三重県の四日市公害を記録する資料館の開設に、ぜんそく患者が多く出た地区が反発した。
四日市公害は石油化学コンビナートによる大気汚染が原因だった。四日市公害訴訟は、津地裁四日市支部で住民側が全面勝訴して、7月24日で40年を迎える。
高度成長の終盤、経済優先の開発に待ったをかけた。産業史と反公害運動史に残る判決だった。
その公害を語り継ぎ、資料を残す運動は今も続いている。小中学校も公害に学ぶ授業を続けている。資料館は公害の経験や環境改善への取り組みを学ぶ拠点にしようと、四日市市が1年前に構想を発表した。
しかし、開設候補地とされたコンビナート地区の連合区長会が猛反発した。代々、この地区に住み、大気汚染の下で育った区長の一人は「公害もようやく昔の話になった。今さら激しい被害地だったと宣伝するような施設は迷惑だ」と話す。
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私の学生時代、四日市は大気汚染が酷く喘息患者さんが多発していた。何が問題なのか、どこが問題なのか、塩浜地区のお宅に伺い、話を聞いたことがある。蒸し暑い夏の夜だった。大気汚染による健康被害、喘息の苦しさを聞いているとき、コンビナートから突然爆音が響いた。私はビックリしたが、ご主人はいつものことですと平然としていたことを思い出す。そのころの石油化学コンビナート、大気汚染、水質汚濁、騒音、悪臭など環境破壊は酷く、帰りに見たコンビナートの夜景にはフレアスタックの炎が冴え、今思っても恐ろしく感じるような場所だった。
そんな四日市も公害を克服し、その住民感情はこのコラムにあるような状況になってきたと思うと感慨深い。
四日市大気汚染訴訟全面勝訴から40年。当時の恐ろしささえ感じた夜景も、夜景ツアーが企画されるようになり、四日市の経験を世界各国に伝える活動まで行われるようになった。
問題になった公害資料館は結局、コンビナート地区から離れた市立博物館に併設する方向で調整が続いているようだ。しかし、一方で、石原産業のフェロシルト問題、コンビナートによる公害データ改ざん問題も生じてきており、公害の風化も心配されてきているのも事実だ。
水俣病の3人。原田正純先生、宇井純先生は亡くなり、今や石牟礼道子さんだけになってしまった。公害は健康被害はもとより、差別、貧困という厳しい経験をした。
私は、この「窓」を開けて、公害の経験は風化させないようにしなければならないと、肝に銘じた。
テーマ:政治・経済・時事問題
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